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人間学・古典

第22人目 「野間清治」

渡部昇一の「日本の指導者たち」

 戦前の講談社(正式には大日本雄辯会講談社)がいかに突出した大出版社であったかを今から実感することは難しい。講談社の九雑誌にくらべると、他の雑誌は部数からいえば取るに足りないものだった。
 徳富蘇峯は講談社のことを「私設文部省」と言ったが、それは誇張とは言えなかったろう。戦前の文部省は義務教育の教科書を完全に支配していた。国定教科書の時代なのだからそれは当然である。その国定教科書の総数に次ぐものが講談社の雑誌だったのだ。
 いな、ある意味では国定教科書以上だったとも言える。というのは国定教科書は義務教育の子供だけを対象としていたが、講談社の雑誌は国民全体を対象としていたからである。
 国民雑誌の『キング』は創刊号七十四萬部、最高のときは百五十萬部も出た。今とは比較にならないほど貧しい人が多く、教育も普及せず、本や雑誌を読む人の少なかった時代のことである。今ならば発行部数一千万部の雑誌ぐらいの感じになるのであろう。
 戦前の農村は貧しかった。東北の農村の貧しさは「おしん」のテレビで有名になったが、あの貧しさは誇張ではない。私も両親の生家がそれぞれ山の方の農村と、海岸に近い農村であったので、子供の時はどちらの村にも遊びに行った。
 そこで遊び友達もできたから、そうした農村の貧困状態はよく覚えている。その中で今でもある種の感激をもって憶い出すことは、そうした極貧の家でも、時に『キング』は見かけたことがあったことである。新聞も当時は村には配達されていなかった頃の話であるからすごい。
 子供の世界で言えば『幼年倶楽部』『少年倶楽部』『少女倶楽部』以外の雑誌はなきにひとしく、絵本は『講談社の絵本』だけが小学校の先生も文句を言わない絵本であった。まことに大正以降の一般の日本人の考え方と感じ方の基礎となったのは、文部省の国定教科書と講談社の雑誌と出版物であったと言っても過言ではないと思う。
 それは戦前の講談社の本社が、他の同業各社とはくらべることのできないほど堂々たる大建築物で、まことに富士山と周囲の山々の差以上の差を感じさせるほどのものだったことに象徴されている。
 ではその偉業を成した出版界のリーダー野間清治とはいかなる人か、と言えば、貧家の出身であり、はじめは高等小学校を出て小学校の代用教員となり、後に群馬県の師範学校(小学校教員を作る学校で授業料などなく、生活費も支給される)に入り、そこを卒業して高等小学校教員になった(当時、小学校は四年までで、五年以上は高等小学校になる)。
 ここに二年勤務した後、東京帝国大学文科大学(今の東大文学部)に設けられた臨時教員養成所に入り、二年後そこを修了し、県立沖縄中学校の教諭、後に視学になった。そこに三年半勤めてから、東京帝国大学法科大学の首席書記になって東京にもどった。ここから彼の本当の活動が始まるのだが、それは明治四十年、三十歳の時である。
 日露戦争後の日本は弁論の時代である。日英同盟の頃でイギリスを模範としていたから議会の内でも外でも、大学の中でも外でも雄弁が盛んであった。ただ東京帝大だけは、大学の外で偉い教授が話すことはまだほとんどなかった。そこに野間は目をつけた。
 帝大の先生にも学生にも弁論家は多くいる。また一般の人たちも帝大の先生の話を聞きたがっている。そこに目をつけた野間は、帝大の先生や学生をも含む雄弁の雑誌を作ることを考えた。速記者に筆記させた名士の演説を中心にした雑誌を出すのだ。出版者は『大日本雄辯会』であり、編集するのは野間の自宅で自分がやり、会計は小学校教員をしていた野間夫人である。
 こうして明治四十三年(一九一〇年)に雑誌『雄辯(弁)』が発行された。第一号は三版まで出て一万四千部が売れる好評ぶりだった。当時の雑誌は千部未満のものも多かったのであるから、驚異的な成功である。野間清治三十三歳のときである。
 二年後に同じく速記を用いて『講談倶楽部』を出版する。そして講談社を設立し、自宅を本社にする。つまり大日本雄弁会の雑誌『雄弁』も講談社の『講談倶楽部』も自宅で編集したことになる(後に大日本雄弁会講談社として統一、戦後は講談社となる)。
 講談を速記に起して雑誌にするというアイデアはすぐ真似され、『講談世界』や『講談落語界』など続々出てきて、経営はひどく苦しくなる。そんな時に野間は東大で剣道をやってアキレス腱を切り、帝大病院整形外科で手術を受け、数十日間、家に引き籠っていなければならないことになった。これを転機に野間はかけまわる活動家から、座敷に座ったままの思索者に変貌する。大学も惜しまれながらやめる。
 動くことをやめて考えを凝らすリーダーになると、雑誌にも名企画が続々と出て売れ行きもよくなる。そんな時に『講談倶楽部』が浪曲を掲載したというので講談師たちが発溌した。浪曲は元来が「門付け」で大道商売であるのに対し、講談は昔から「高座」から語るもので格が高いから、浪曲と一緒にするとはけしからん、というので、講談師側から速記提供拒否の通告を受ける。
 しかし野間は根っからの民主々義者だからそんな差別的運動には屈しない。講談をタネにした小説を、小説家に書いてもらうことを考え付くのだ。これが「新講談」とか「時代物」という大衆小説の起源であり、この中から吉川英治をはじめとする人気作家が続々と生まれはじめた。大正二年(一九一三年)野間清治三十六歳のことである。
 この毅然とした態度と新しいアイデアは日本中の支持を受け、『講談倶楽部』も『雄辯』も雑誌なのに増刷、それどころかいくら刷っても間に合わないような状況になり、雑誌界に講談社時代が訪れる。雑誌を始めて十年足らずの短期間にである。
 野間のモットーは「面白くてタメになる」であった。彼は読者にとって必ずタメになる雑誌内容にするという理念をくずしたことはなかった。講談に出てくる忠義、孝行、善行、人情などなどのテーマが重んじられた。ただタメになるだけでは読む人もあまりないから「面白い」ことを徹底的に重んじた。大人の雑誌にも漫画や笑話も入れたし、佐々木邦などのユーモア小説もはじめて日本に登場させた。
 野間清治は昭和十三年(一九三八年)十月に狭心症のため死去した。享年五十九歳。シナ事変が始まって一年三ヶ月、戦時の国家社会主義体制が推し進められていくさなかであった。そして丁度その三年後の昭和十六年(一九四一年)の十月、『雄辯』は休刊になった。
 こよなく雄辯を愛し、「雄辯なき国は腐敗し衰える」と言った野間は、その雑誌が休刊せざるをえなくなった悲しい言論状況を見ないですんだのである。これは日本から言論の自由が消えた象徴的なことであった。

渡部昇一

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〈第22 人目 「野間清治 」参考図書〉 
「奇蹟の出版王」
出川沙美雄 著
河出書房新社 刊
本体2,000円

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