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第15人目 「スプルーアンス」

第15人目 「スプルーアンス」

 もしこの人がいなかったら、ひょっとしたら日本はこの前の戦争に勝っていたかも、あるいは少なくともドローン・ゲームになったかもしれないと思われる人物がいる。
 (この仮定は今から見ると荒唐無稽のようだが、昭和17年=1942年には十分現実性があったことは、アメリカの作家ハーマン・ウォークもその理由をあげて書いていることだ。)この人物の名はレイモンド・エイムズ・スプルーアンスである。

 彼は劣勢なアメリカ機動部隊を率いてミッドウェイ海戦を行い、その当時、史上最強、並ぶものなき南雲中将の率いる日本の機動部隊を全滅させた男なのである。

 その後、アメリカの第五艦隊を率いてギルバート諸島、マーシャル群島、マリアナ海戦、硫黄島、沖縄など中部太平洋のすべての大作戦を指揮し、完勝した。

 彼の最後の戦場である沖縄攻略の時は、指揮下にあった艦艇の数は実に1500隻、航空母艦だけでも16隻というものであった。史上空前の大艦隊であり、今後も二度と見ることはできないであろう。

 数年前、台湾問題が緊急となり、北京政府が威嚇のミサイルを発射した時に、アメリカが派遣した空母は二隻であったが、これで北京政府がおとなしくなったことを考えると、日米の太平洋をはさんでの戦争が、いかに巨大なものであったか―――史上空前絶後の巨大規模であった―――わかるであろう。しかしスプルーアンスの名前は知る人ぞ知る、と言った程度である。

 スプルーアンスは1886年(明治19年)に母の実家のあるボルティモアで生まれた。両親ともこれという家系ではない。父の家はもとは農家で、中西部のインディアナ州に住んでいたから、海とも関係がない。

 しかもその後、祖父の家が破産し、父は世捨て人のようになり、田舎の出版社に勤めていた母の収入だけが頼りという状態で育った。大学に進学する学資がないので海軍兵学校に入ることになったのである。(日本の秋山真之兄弟を思わせる。)

 彼は内気な少年であった。このひかえめな性格は一生続く。マスコミに出ることを嫌ったため、業績にふさわしい知名度はない。そして1906年(明治39年)、つまり日露戦争の翌年に209人の同期生中、21番で海軍兵学校を卒業した。上位1割の最後になるくらいの成績である。決して悪くはないが、傑出した成績でもない。

 マッカーサーが一番で通したのとはだいぶ違う。日本との戦いが起らず、しかもそれが空母中心の機動部隊の戦いということでもなければ、スプルーアンスは同級生ぐらいにしか名の知られない平凡な海軍大佐ぐらいの将校として退役したであろう。

 スプルーアンスの特色は、静かで、はにかみやで、手堅く、注意深いことであった。彼は貧乏の苦労を体験しているから家計にも慎重で、若い時から注意深い金銭管理によって、晩年は億単位の資産を有する老人として、庭と温室を趣味とする悠々たる隠居生活をカリフォルニアで送り、83歳でなくなった。

 内気とか、はにかみ屋と言われていたにもかかわらず、しかも航空部隊の経験がなかったにもかかわらず、機動部隊司令官のハルゼーが急病になったためにその機動部隊を率いてミッドウェイの海戦に出るや、最も必要な時に、断乎たる命令を下したのである。

 日本の敵の機動部隊が発見されたという情報が入ると、ただちに全力をあげて攻撃に向かわせている。あとは「運」であるが、このときアメリカに勝ち運がついた。その「勝ち運」のついた艦隊を率いてスプルーアンスは沖縄に至るまで一方的に勝ち続ける。

 ミズリー号上の日本の降伏調印式に出席するようにとマッカーサー元帥から招待されたが辞退し、艦隊にとどまって守りの手をゆるめなかった。英雄として大歓迎を受けることもなく、日本にとどまってアメリカ兵の引き揚げ業務などを指揮している。アメリカ海軍で最も若くて四つ星の提督、つまり海軍大将になったこの人は、それほど地味な人だったのだ。

 アメリカ海兵隊はギルバート群島の中のタラワという小島を取るために千人以上もの海兵隊員の死者を出した。(この守備隊長の柴崎少佐の功績はたたえられるべきだ。)これを徹底的に検討して、上隊作戦の方式を作り上げ、次のマーシャル群島の作戦では、海兵隊の死者は200人であった。

 スプルーアンスの注意深い性格は、大艦隊を日本軍に気付かれないように使うことを成功させたのである。トラック島の日本海軍の大基地が奇襲され、日本軍の飛行機約200機、艦船約40隻が失われた時でも、彼の艦隊は飛行機17機を失っただけであった。

 沖縄の戦では、日本の神風特攻機によって彼の旗艦インディアナポリスは退場しなければならなくなり、更に次の旗艦ニュー・メキシコも神風特攻機のために使えなくなっている。(日本の神風特攻機が、アメリカの大艦隊の旗艦を二度も使えなくしたことに対しては改めて敬意と追悼の意を表したい。)艦隊司令長官のスプルーアンス大将みずから、消火ホースを握って消火に務めた。怪我や戦死しなかったのは彼に武運があったからであろう。彼はまたこう言っている。

 「戦争において個人が有名になるのはマイナスである……名声を得たことによって頭が変になる危険があるからだ……人は自分自身のことや、自分に与えられるかもしれない名声のことなど忘れ、正しい決定を下すために全力を集中しているときに初めて最善の判断ができるのだ。」

この彼は生存中はマスコミなどで人気者になることはなかったが、今では「知力にすぐれ、決して判断の誤りを犯すことのなかった人物」という評価が定まっている。

 彼は兵学校卒業後間もない頃の航海で日本に来た時、パーティー席上で東郷元帥に会った感激を終生忘れなかった。他の提督が日本人を侮辱する言葉を吐くのが当然の時代でも、彼は日本軍に対する敬意を失わなかった。

 それで極めて慎重な作戦を立て続けたのである。その東郷元帥を知らない日本人が増え、東郷元帥に与えられたと同じ勲章が、靖国神社の首相参拝をやめることにした中曽根氏にも与えられていることこそ、日本の戦後の本質を示していると言えよう。

渡部昇一

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〈第15人目 「スプルーアンス 」参考図書〉 
「提督スプルーアンス 」
ブュエル,トーマス・B著
 小城正訳
学習研究社刊
本体3200円 

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経営コラムニスト紹介

渡部昇一氏

渡部昇一氏

1930年山形県生まれ、上智大学名誉教授、評論家。
知的生活までを述べた著書『知的生活の方法』がベストセラー、専門の英文学以外に多数の歴史論、政治・社会評論を著している。
日本人有数の古書の蒐集家でもある。


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