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歴史・人間学・古典

2018.12.18

組織を動かす力(12)信長の軍団運用

指導者たる者かくあるべし

 個人プレイより軍団のマネジメントを追求

 織田信長という武将、16世紀という時代にあって、組織運用にあたり従来の既成概念にとらわれず、数々の新基軸を打ち出している。ほかの大名たちが踏襲した、家格、年功序列の人事の枠を取り払った。

 柴田勝家はかつて信長に弓をひいたこともあるが、それを赦して重用する。信長を支えた木下藤吉郎(豊臣秀吉)、丹羽長秀、前田利家、滝川一益、明智光秀にしても、決して生まれがいいわけではなかったが、それぞれの才を見抜き、大胆に起用した。

 “天下布武”(天下統一)を視野に入れてからは、各地の大名の攻略には、方面軍を組織し、みずから育て上げた武将たちに軍団を任せた。今でいう独立採算の事業本部制をとったのだ。それまでの戦いは、大名、あるいは武将たちが先頭にたって敵陣に斬り込むスタイルだった。彼は変えた。武将たちに求めたのは、個人プレイではなく、任された軍団を効率的に統率、運用し、戦争遂行のためのロジスティック(補給路の確保)と占領地経営まで含めたマネジメント能力なのである。

 

 フレキシブルな人事

 永禄11(1568)年9月、信長は将軍義昭を奉じて挙兵、京都に入り、畿内平定に取り掛かる。翌年、義昭は二条城に移り信長に言った。

 「まだ戦争はやまぬ。身の危険もあるから勇猛な武将を一人、護衛にあたらせよ」

 当時、信長家臣のうち、武で鳴らしていたのは、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀の三人だった。だれもが、この三武将のうちから、二条城、京都守護役に選ばれるものと思ったが、信長の人事は意外なものだった。

 信長は格下の木下藤吉郎を抜擢したのだ。群臣は、藤吉郎への偏愛を妬んで、「まだ若すぎる」と讒言を信長の耳に入れた。信長は告げ口に耳を貸さず言った。

 「人を用いる道は、その者の才能のあるなしによって選ぶべきものだ。奉公年数の多い少ないを論ずべきではない」

 京都守護の役回りは、形ばかりとなったとはいえ幕府、朝廷との政治交渉もある。武辺一辺倒では務まらない。藤吉郎にその才ありと見ての適材適所であった。

 

 目配り心配り

 幼いころの信長は、よく足下の蟻の行列を飽かずに眺めていたという伝えがある。そして組織、集団というものは、二が働きもので、六が普通、残る二がさぼることを見てとったという。軍団で言えば、働きものの二を抜擢して、いかに普通の六を働かせ、組織全体を動かすかが肝心と見るようになった。

 ある時、信州高遠城を攻め落とした戦いで、16歳の無名の若武者二人が功名をあげた。戦いを指揮した息子の信忠から聞いた信長はすぐに二人を呼び出して褒め、名刀を取らせる。

 「このたびの働きは類まれなこと。信忠が目をつけた通り、期待にそってくれたことは、ひとしお満足だ」

 もうひとりには、「お前は手柄をたてると思っていた。剛のものとして知られた○○の甥だからなあ」。

 ひとを褒めるにも、合わせて主君を褒め、縁者までも称える。組織が倍にもまして活性化したことは当然だ。人褒めの極意である。

 

(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com

※参考文献
『名将言行録』岡谷繁実著、北小路健・中澤惠子訳 講談社学術文庫
『信長軍の司令官』谷口克広著 中公新書
『完訳フロイス日本史2、織田信長篇』ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫

 

講師紹介

宇惠一郎(元読売新聞東京本社国際部編集委員)

 早稲田大学卒業後、商社を経て、1978年読売新聞社入社。社会部、外報部、95~98年ソウル支局長。帰国後、解説部次長、2007年編集委員。2011年4月〜2012年8月ソウル支局長(専任部長)、2012年9月編集委員、現在フリージャーナリストとして活躍している。 ※主な著書と受賞歴 「20XX年地方都市はど...>もっと見る

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