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ナンバー2の心得(14)敵を作らず味方を増やす

指導者たる者かくあるべし

歴史・人間学・古典

2018.07.16

宇惠一郎(元読売新聞東京本社国際部編集委員)

 政敵の政治パーティーを盛り上げる

 竹下登が田中派内での派中派としての「創政会」を立ち上げ、田中角栄が脳梗塞で倒れた1985年(昭和60年)は内外ともに課題山積の年だった。

 9月には、ドル高是正のプラザ合意がなされ、輸出中心のわが国の経済構図は転換点にさしかかる。中曽根康弘内閣は、行財政改革の一大課題の国鉄民営化に取り組んでいた。蔵相として竹下は懸案処理に追われる。

 そうした中の6月20日、都内のホテルで「〝人間〟二階堂進君を語る会」が開かれた。自民党最大派閥の会長であり、倒れたとはいえ田中角栄の名代の政治パーティーとあって、政財界から8500人が詰め掛けた。

 出席者に配られたパンフレットにこうある。

 「今の政治家たちは、勉強会を開いたりしてよく勉強している。しかし、いいリーダーになる者は、細かいことにこだわるよりも、人情や義理、信義を忘れてはならない」。竹下らの分派行動を辛辣に批判していた。

 だが創政会のメンバーたちはさらに先を見据えていた。あえて二階堂と対立せず、政治パーティーを盛り上げて田中派の結束を誇示し、派内の主導権を奪い取る現実的な戦略だった。

 一説には、この政治パーティーで集められた10億を超える政治資金の大半も創政会が吸い上げ、多数派工作に使われたという。二階堂擁立劇の怨念を超えて、したたかな行動に出たのだ。

 

 中曽根に食い込み後継指名を勝ち取る

 

 翌1986年秋には、中曽根の2期目の総裁任期が切れる。当時の党規約では3選は禁じられていたから後継争いが始まることになる。

 当時、ポスト中曽根を狙いニューリーダーと呼ばれたのは、竹下のほか、安倍晋太郎と宮沢喜一。さらに二階堂も総裁選に意欲を見せていた。

 中曽根が同年7月の衆参同日選挙で自民党勝利に導くと、任期延長論が出始める。

 投票日直前に竹下が動く。創政会を基盤に、経世会(竹下派)を結成し、党内最大勢力を確保した。そして、「期限付き中曽根任期延長」を鮮明にする。安倍は任期延長反対、宮沢が煮え切らない態度を示すのを尻目に、中曽根を支える姿勢を示して取り込み禅譲ムードを形成して行った。

 中曽根にしてみれば、引退後、最大派閥と提携して影響力を残すのが得策だった。

 果たして一年後の1987年10月、中曽根は次期総裁に竹下を指名し、11月6日、竹下登は、首相の座を射止める。

 竹下内閣は、安倍を幹事長に据え、宮沢を副総理兼蔵相の要職に据えて遇した。「敵を作らない」竹下流の人材登用であった。

 二階堂はといえば、総裁公選を前提に総裁選出馬を表明したが、選挙は行われず、後の祭りとなる。二階堂擁立劇当時の逡巡が、政治家の運命を決めた。決断時の一瞬のためらいは、どうにも取り戻せない結果を生む。

(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com

※参考文献
『自民党-政権党の38年』北岡伸一著 中公文庫
『政治とは何か 竹下登回顧録』竹下登著 講談社
『鹿児島人物叢書4 二階堂進』上城恒夫 高城書房

講師紹介

宇惠一郎(元読売新聞東京本社国際部編集委員)

 早稲田大学卒業後、商社を経て、1978年読売新聞社入社。社会部、外報部、95~98年ソウル支局長。帰国後、解説部次長、2007年編集委員。2011年4月〜2012年8月ソウル支局長(専任部長)、2012年9月編集委員、現在フリージャーナリストとして活躍している。 ※主な著書と受賞歴 「20XX年地方都市はど...>もっと見る

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